・・・・・・・・・・・・・・年譜 ・・・・・・・・・・・・・・
1903 m36 6月22日
- 群馬県藤岡市上落合に生まれる 小学生時代には軟式テニスに熱中する
1921 t10 18歳
- 群馬県立藤岡中学校第四学年修了 中学生時代は国木田独歩を片っ端から愛読する
1924 t13 21歳
- 第一高等学校(理科甲類)卒業 弓術部に所属、山歩きも嗜む
1927 s2 24歳
- 3月、東京帝国大学工学部航空学科卒業(第五期生 卒業設計は飛行艇)
4月、三菱内燃機株式会社名古屋製作所入社、10月20日、研究部風洞係に配属
[1928〜三菱航空機株式会社]
1929 s4 26歳
- 機体部設計課に配属、6月、欧州視察に出発し、ドイツ(ユンカース社)、イギリス視察後、社命で渡米し、大晦日にニューヨーク着
1930 s5 27歳
- アメリカ(カーチス社)視察 約15ヶ月間の欧米視察を経て帰国
1932 s7 29歳
- 4月、結婚 海軍七試艦上戦闘機設計主務者
上司の荘田泰蔵の手ほどきでゴルフを始めるが戦争で中断
[4月1日、海軍航空廠(横須賀)発足]
1933 s8 30歳
- 3月、海軍七試艦上戦闘機、社内試験飛行中に墜落大破(各務原飛行場)
1934 s9 31歳
- 海軍九試単座戦闘機設計主務者
[1934〜三菱重工業株式会社]
1935 s10 32歳
- 1月、海軍九試単座戦闘機完成 各務原飛行場での九試の試験飛行に大学同窓の土井武夫を招待し、その晩、長良川ホテルに滞在の海軍将校を二人で訪ね三者で歓談する
1936 s11 33歳
- 海軍九六式艦上戦闘機制式採用
海軍十一試艦上爆撃機設計主務者(未完)
1937 s12 34歳
- 1月23〜25日、立川航空技研に出張(キ-33の試験に立ち会う)
5月12〜13日、航空廠に出頭(Heinkel He 118急降下爆撃機見学、九六艦戦打合せ、十一試艦爆質疑のため)
5月19日、十二試艦上戦闘機(零戦)計画要求書案を受領
8月、航本に出向き和田少佐と零戦の基本的事項について打合せ
10月5日、正式な十二試艦上戦闘機(零戦)計画要求書を受領
海軍十二試艦上戦闘機(零戦)設計主務者
1938 s13 35歳
- 1月17日、13時 十二試艦戦(零戦)の官民合同研究会(航空廠会議室)に出席し「・・余リ要求ノ標準ガ高過ギルト述ベタリ」(自筆報告書)
- 3月16〜17日、零戦に超々ジュラルミンを採用するため住友金属工業に出張
4月1日、九六艦戦の胴体隔壁故障の件で航本に出頭
4月6日、九六艦戦二型胴体隔壁故障の対策打合せのため航本と空廠に出頭
4月9日、附図以外全て自身で書いたA6M1(零戦)計画説明書を海軍に提出
4月13日、十二試艦戦(零戦)計画説明審査会(航空廠にて)に出席。堀越は席上で、航続力、速力、格闘力の主要順序につきいかに考えておられるか、おうかがいしたいと質問すると、海軍内で主題論争が始まった。
4月27〜28日、十二試艦戦(零戦)第一次実大模型審査(三菱名航試作工場)
12月26〜28日、十二試艦戦(零戦)第一次実物構造審査(三菱名航試作工場)
1939 s14 36歳
- 3月17日、零戦第一号機完成検査(三菱名航試作工場)
3月18日、12時45分〜13時40分 零戦第一号機地上運転(三菱名航試作工場西の広場)
3月23日、分解梱包した零戦を牛車に載せて試作工場を午後七時過ぎ出発、翌日晩に各務原飛行場陸軍航空支廠の東に隣接する三菱格納庫に到着
4月1日、零戦初飛行
(各務原飛行場での社内試験飛行、天候晴、西風3m/秒)
16時30分、第一回地上滑走
17時00分、第二回地上滑走
17時30分、第三回地上滑走 離陸し、高度10 m距離500 mを飛行
「・・設計主任トシテ大半ノ重荷ヲ却シタル感アリ」(自筆記録)
(翌日から三日間の改修を経て慣熟飛行を継続)
4月17日、零戦に初めて3翔プロペラを装着し振動が半減する
6月5日、昇降舵操縦系統第一次剛性低下の初試験飛行
7月上旬、連日零戦の試験飛行 玉井屋旅館に逗留
9月13日、零戦領収飛行
9月14日、零戦空輸 9時6分各務原発、10時00分横空着
9月、海軍第六回水槽研究会前刷『操縦性に関する一問題』
海軍十四試局地戦闘機(雷電)設計主務者
1940 s15 37歳
- 3月11日、横須賀で零戦が空中分解し、操縦士が殉職 その日の夜汽車で横須賀に向かう
民間功労者として紀元2600年式典(11月10日)並びに祝賀会(11月11日)に出席
[海軍航空廠を海軍航空技術廠に改称]
1941 s16 38歳
- 2月13日、特許、飛行機操縦装置(特許第141,772号)
4月17日、零戦の墜落事故によりパイロットが殉職 その晩名古屋を発ち、翌朝、横須賀の航空技術廠に出頭
9月半ばから10月末まで生家にて静養 隣村の山名八幡宮の祭(10月15日)に参詣
1942 s17 39歳
- 三菱重工業名古屋航空機製作所技術部長附、兼第二設計課長
海軍十七試艦上戦闘機(烈風)設計主務者
5月24日、第一回ロケット研究会に出席(名古屋発動機にて)
1944 s19 41歳
- 5月6日、17時15分〜17時30分 烈風、ジャンプ飛行(初進空)3回、場所三重空、雨上り、西風4.5〜3 m/秒
12月5日、名古屋を立ち、翌日、航空技術廠にて烈風の会議に出席
12月7日、東南海大地震が発生し天竜川に架かる東海道線の鉄橋が崩壊、三菱大江工場も甚大な被害を受ける。12月16日、信越線で長野を経由し20時間以上かけて17日夜に名古屋に戻る
1945 s20 42歳
- 5月15日、堀越は松本(三菱重工業第一製作所の疎開先)へ疎開
6月1日、三菱重工業参事
1945〜1957 s20〜s32
- 三菱重工業第一製作所技術部次長、本社技術部在勤、同社古見機器製作所技術部長、古見機器製作所長附、本社調査役附を歴任
[1950〜中日本重工業株式会社、1952〜新三菱重工業株式会社]
- 1952 s27 49歳
- 8月、応用力学『最近の航空機工作技術の展望』
1953 s28 50歳
- 1月1日、初版共著『零戦 日本海軍航空小史』日本出版協同、1956年英語版発刊
『世界の航空技術』コロナ社、分担執筆
- 1954 s29 51歳
- 11月17日、経団連にて糸川英夫教授の講演を聴講
1955〜1962 s30〜s37
- 東京大学工学部非常勤講師(航空学科)
1957 s32 54歳
- 3月1日、新三菱重工業本社技術部次長
1957〜1959 s32〜s34
- YS-11準備調査・設計研究・設計仕様決定・基礎設計、分担主務者
1959 s34 56歳
- 4月9日、シコルスキー来日講演に出席(明治大学南講堂)
11月、BOEING 707-436デモフライト搭乗
初版『航空学辞典』地人書館、分担執筆
1960 s35 57歳
- 7月、寄書『イゴール・I・シコルスキーの足跡』日本航空学会誌
1961 s36 58歳
- 兼名古屋航空機製作所技師長
解説書『F-104J戦闘機ー開発史および特性概要』
3月18日、V/STOLのすう勢について講演(防衛庁にて)
7月31日、ヘリコプターに関して講演(福岡市にて)
1962 s37 59歳
- 8月30日、YS-11の初飛行に立ち会う(名古屋飛行場)
1963 s38 60歳
- 4月1日、新三菱重工業参与
5月30日、新三菱重工業顧問
5月、文部教官、東京大学講師(航空研究所、翌年4月1日より宇宙航空研究所勤務)
11月9〜14日、新三菱重工業顧問としてMU-2飛行試験を視察(名古屋飛行場)
1964 s39 61歳
- 2月11日、グアム島から回収した零戦と対面、「当時の様々な情景を次々に瞼に浮かべながら熱いものがこみ上げるのを禁じ得なかった。」(堀越二郎)
9月10日、YS-11招待飛行に搭乗
[1964〜三菱重工業株式会社]
1965 s40 62歳
- 1月30日、三菱重工業顧問としてMU-2社内審査会出席(小牧工場内)
3月15日、東京大学工学博士学位論文(昇降舵の操縦系統における剛性低下方式に関する論文『A RESEARCH ON THE IMPROVEMENT OF FLYING QUALITIES OF PILOTED AIRPLANES ーREDUCED STIFFNESS CONCEPT APPLIED TO ELEVATOR CONTROL SYSTEMー』)
>>論文要約ページ
3月、東京大学宇宙航空研究所報告『SST調査概報』
3月31日、東京大学定年退職
4月、防衛庁教官、防衛大学校教授(航空工学教室)、研究科兼担
8月、「零戦展」(鹿児島高島屋)に堀越自身所有の資料を貸出す
11月、日英米共催航空学会出席のため渡米し、NASA、ノースアメリカンアビエーション社、シコルスキー社を訪問
- 1967 s42 64歳
- 3月、日本航空学会誌『有人飛行機の飛行性の改善への提案ー”舵の効き重さ”という概念の拡張ー』
『驚異の戦闘機ゼロ戦』の堀越二郎監修校閲は事実無根につき取消を要求(堀越二郎)
1968 s43 65歳
- 防衛大学校理工学研究科(飛翔体工学専攻)担当教授、兼本科教授
1969 s44 66歳
- 3月、防衛大学校理工学研究報告『手動操縦飛行機の昇降舵を自由にした場合の縦の短周期動揺と昇降舵回転動揺との連成について』
同校定年退官
6月25日、YX開発委員会会合出席
1970 s45 67歳
- 3月20日、初版『零戦 その誕生と栄光の記録』
「零戦と世界の航空史展」(静岡田中屋)に堀越自身所有の資料を貸出す
1972 s47 69歳
- 5月18日、日本航空工業会創立20周年記念式典出席(ホテルニューオータニ)
1972〜73 s47〜s48
- 日本大学生産工学部教授、綜合科学研究所所属
(日本大学理工学部非常勤講師も務めるが期間不詳)
1982 s57 1月11日
- 逝去 享年78 大学同窓の木村秀政が弔辞献呈
・・・・・・・・・・学会、省庁、協会関係 ・・・・・・・・・・
- 1942〜1945 s17〜s20
- 大日本航空技術協会第一、第二両部会委員
1953 s22
- 自動車技術協会創立委員、同会初代理事
1953〜 s28〜
- 通産省航空機生産審議会(後、同省航空工業審議会と改組改名)専門委員
1953〜1958 s28〜s33
- 通産省航空機工場検査員国家試験委員
1953〜1959 s28〜s34
- 工業技術院日本工業標準調査会臨時委員
1955〜 s30〜
- 総理府、科学技術庁航空技術審議会専門委員
1955〜 s30〜
- 運輸省航空審議会耐空性基準部会専門委員
1956〜 s31〜
- 文部省学術奨励審議会(学術用語審議会)専門委員
1959〜1965 s34〜s40
- 工業技術院日本工業標準調査会(航空、鉄鋼、非鉄金属各部会)委員
1966〜 s41〜
- 運輸省航空機事故調査団員(羽田空港におけるカナダ太平洋航空のDC-8機の事故及び富士山東麓における英国海外航空のボーイング707機の事故に関する)
1953〜 s28〜
- 日本航空協会評議員
1953〜1961 s28〜s36
- 日本航空学会理事
1961〜1962 s36〜s37
- 日本航空学会監事
1962〜1963 s37〜s38
- 日本航空学会会長(第十期)
1972 s47
- 4月5日、日本航空宇宙学会(1968年、日本航空学会を改称)より名誉会員に推挙される
・・・・・・・・・・・・・表彰関係 ・・・・・・・・・・・・・
- 1940 s15 9月14日
- 昭和15年9月13日の零戦初陣の勲功を讃えて海軍航空本部長より感謝状を会社名義で受賞
1942 s17 4月
- 勲六等瑞宝章受章(日華事変論功行賞、s15年3月以前の関係)
1942 s17
- 九六式及び零式艦上戦闘機の完成に尽くした功績を賞して海軍大臣より技術有功賞を会社名義で受賞
1945 s20 7月
- 戦闘機の設計に対する功績に対し三菱重工業より表彰
1962 s37 4月
- YS-11の完成に対して科学技術庁長官より科学技術功労賞を受賞
1973 s48 11月
- 勲三等旭日中綬章受章
1982 s57
- 従四位を追賜
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